GLAlog-021/ゲントな「令和」。
更新日:2020年3月1日
GLAファンの皆様
こんにちは。

ついに、「令和時代」に突入です。
日常は何も変わりませんが、
手続き関係など煩雑なので、むしろ西暦だけにしてほしいなどと
思い続けてきましたが
元号に込めた想いなどを知ると、
日本人のアイデンティティーにも触れる部分もありますので
どうやら、仕方なく受け入れてしまう自分でありました。
今更ですが
「万葉集」から引用された令和。
全20巻。
7-8世紀ごろ(奈良時代)に現在の形に近いものに編纂されたといいます。
天皇や皇族をはじめ、歌人さらには農民など幅広い階層の人々が読んだ
約4,500首が収められています。
内閣総理大臣曰く、万葉集について
「幅広い階層の人が読んだ歌が収められており、
豊かな文化と伝統を象徴している国書である。」
また、
「 悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、
こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、
厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、
見事に咲き誇る梅の花のように、
一人一人の日本人が明日への希望とともに
それぞれの花を大きく咲かせることができる、
そうした日本でありたいとの願いを込めた 。」 と。
やっていることと言っていることの乖離を感じざるを得ませんでしたが
やはり、本来はこういう日本であってほしいと僕も思います。
作者不明ということですが、梅花の歌は大伴旅人ともいわれ、
飛鳥時代から奈良時代に活躍した歌人で、太宰府長官でもあったそうです。
その歌をみてみますと
以下原文、現代語訳「新版 万葉集―現代語訳付き (角川ソフィア文庫) 」引用
“天平二年の正月の十三日に、師老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。
時に、初春の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。
ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。”
“天平2年の正月の13日、師老(大伴旅人・おおとものたびと)の邸宅(太宰府)に集まって宴会を行った。
折しも、初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。そればかりか、明け方の山の峰には雲が行き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋をさしかけたようであり、夕方の山洞には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳に閉じこめられながら林に飛び交っている。庭には春に生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋に来た雁が帰って行く。
そこで一同、天を屋根とし、地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって、胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。
ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭の歌を詠むがよい。”
ということらしいです。
何とも言えぬ日本人らしい情景ですね。
忙しい現代ではなかなかこういう感覚は遠いものになってしまっていますが
花見のような時くらいはこういう感覚を覚えるかもしれませんね。
さて、そんな令和。
GLAはどのようになってゆくのでしょうか?
前回の振り返り平成で述べたように、感動の人生を送りたい。
そして、建築を通して感動を伝えてゆきたい。
そこに尽きるのではないかと思います。
人としてまずはますます成長してゆかねばなりません。
様々な経験を通してよりよい人生をつくっていきたいところです。
その中から、おのずとにじみ出てくる建築。
どんどん渋くなってゆくのでしょうか(苦笑)
いや、いつまでもピュアに、前衛に、でも渋く。
そんな、人生や建築でありたい。
年とともに、丸くなるのも一つですが
角を丸めず、よりシャープにキープしたいところです。
手摺の握りの良さを追求するでなしに
手摺は機能を果たせばそれでよし、くらいの感覚。
そういうのも時として重要です。
この建築には、この手摺だなという意匠上の相性があります。
たとえば、握りの良さだけを考えると
丸棒直径30㎜ほどが握りやすかったりします。
けれど、丸が似つかわしくない空間もあるわけです。
自邸「森の素形」でいうと、手摺は
鉄のLアングルで構成されています。
しかも塗装をしておりません。
若干錆び付いています。
握り心地、、、手のひらのツボを刺激してくれます。
におい、若干錆びたにおいが付着します。
安全性。。。中残がないので大人限定です。落ちます。
自邸に関しては、自由度が高いので
空間のあるべき姿を模索し、ここに至りました。
私自身にとってはこういう空間も必要だったわけです。
「美しくなくては機能的ではない。」
巨匠、丹下先生のお言葉。
まずは絶対的に愛すべき存在であってほしい。
そんな願いを織り込んだ住宅でありました。
こういう、とんがった部分も大切にしながら
お客様とお話を徹底的にしながら、
その方にとっての似つかわしい空間を考える。
クライアントと建築家。
対等に同じ目線で、意見を交換する。
この姿勢もこれまで同様、大切にしてゆく次第です。
先日久しぶりに師匠と酒を酌み交わし
今後はどんな建築を目指してゆくのか?
との問いに
「住宅を基軸に、教会、美術館などをやってゆきたい」と答えました。
建築の中でも、感動を与えられるものは実は少なかったりします。
というのは「感動=精神性」ということが直結したりします。
精神性とは、その建築に精神が宿っているかどうか。
と言い換えることができるかもしれません。
それは、「人と建築と自然」が三位一体的に扱われていることです。
具体的にはいろんなパターンがあるわけですが
たとえば、
建築が、外の景色と連続して建てられ、開放的で中と外を行き来できたり、
外と縁を切られて閉塞的ではあるけども、空だけがきれいに見えたり、
そこから美しい太陽の光が射し込んだり。
そこに佇むと、気持ちに否応なく変化が表れます。
気持ちが良いとか、心が落ち着くとか、開放的で伸び伸びするとか。。。
それを生み出す空間が建物ではなく、建築というものだと思います。
ある種、建物の当然の機能を満たしながら
芸術的であること。
うーん、この芸術的という言葉は自分の中ではしっくりこないのですが
このように定義されることが多いように見受けられます。
芸術的≒感動的 ととらえたほうがGLAの場合はしっくりきますね。
じゃあ、GLAのオススメな感動の建築とは?
はい、それでは、感動的な建築のご紹介です。
と行きたいところですが、
それはゲントな建築行脚シリーズでのご紹介にしたいと思います。
では一つだけ。
もはや、建築行脚しすぎたので(それでも見たい建築は山ほどある)
何が一番?と聞かれると答えることが難しいのですが
学生時代に、これだけは見ておきたいと思ったのは
巨匠ル・コルビュジエの「ロンシャンの教会」です。
教会が作りたい原点ともいえます。
こんな感動的な光を生む建築もあるのです。
めちゃめちゃアクセスしにくいのですが、早朝雪が降り積もる中。。。
これです。。。
