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  • 執筆者の写真 GLA

GLAlog-020/ゲントな「平成」。

更新日:2020年3月1日


GLALOGファンのみなさま。

お待たせいたしました。

平成最終日に更新すべく、どうにかギリギリ間に合いました。

読まれている頃は既に令和に代わっていることでしょう。


平成という時代が終わってしまいます。



小学校低学年だった昭和の終焉。

あまり、ぴんと来ないまま平成に入ったわけです。


つまり、僕の記憶のほとんどは平成なのです。


ということで、前しか普段見ていないGLAな僕ですが

ちょっと過去を振り返りたいと思います。


基本的には建築に関する部分で、ね。

あまり僕のプライベートを書き上げても

埃だらけになってしまいますからね。


まず、どうしてこの「建築」という業界に足を踏み入れてしまったのか?

そんな経緯を振り返ってみたいと思います。


実は、小さな時から建築や住宅に興味があったのかと聞かれれば


答えは「NO」です。


いまから思えばそれもそのはず。

建築に興味がわくはずもないわけです。


北海道という特性上

三角屋根の家型や、いびつな家型、無落雪のフラットな外観の

家が立ち並びます。

その屋根はほとんど青とか赤とか

板金のよくある色で構成されているものが多かった記憶があります。

未だにその名残をよく見かけますね。


この年になると、少しノスタルジックに見えて

悪くないな、などと感じてしまう(幻覚?)のですが

当然、当時は美しいとも思えないし、

立体構成や、外観一面においてもその構成が美しいなどと

感じることすらできない

ただ、できてしまった産物としての建物ばかりが

大地を埋め尽くしているようにしか受け取れませんでした。


当然、どこどこにすごい家ができたんだってさ。

なんて、話が聞こえてきて、見にいっても

何も感動することがなく

ただ大きい、といったヴォキャブラリーの範疇だったわけです。


僕は絵を描くことが好きだったわけです。

ある程度の関心のあるものは当然模写もしますので

上手にかけるようになりました。


その中でも、描けなかったのが

「家」と「車」。

描きたいと思える対象が身の廻りにはなかったのです。

当時はそのような環境でした。

共感される方もいるのではないでしょうか。


車も同じような現象で

身の回りにはスポーティーな外車を乗っている方がいたわけでもなく

車の専門的な雑誌を見るわけでもなく

男の子としては珍しく、全く興味がなかったのです。

ベンツに乗せてもらっても、そのすごさを理解できず

頑丈な車という印象に終わってしまったのです。


そんな僕にもやたらと興奮する出来事がありました。


高学年になると行事の一環で

出店のようなお祭りのような、

買い物ごっこ的な店を構えて

そこで売り買いをするというようなイベントがありました。


図工が得意だったのもあり大工班に抜擢されます。

そこで、簡易的にではありますが

段ボールを利用して、はじめて人が2-3人入る小さな空間を作ったのです。

記憶はあいまいですが

非常に楽しく、初めて男子が心躍らせる基地のような

掘っ立て小屋を作ったのでした。

その薄暗さといい、ちょっと開けられた窓といい

段ボールのにおい、狭さ、全てが新鮮だったのです。

おそらく、初めてアドレナリンが出まくっていたのではないかと思います。


それに味を占めて、よく遊びに行く森のある公園の

やや深いところの沢に木の幹が

がせり出して生えている危ないロケーションに

基地をつくろうと思い立ちます。




当時の親友と二人で、段ボールをスーパーでもらい

仮設的な床を段ボールと枝などを利用して組んでいきます。

当然、足を滑らせると沢に転落です。

その緊張感と森の中という安心感、眺望の良さなども最高で

そのシーンだけ見ると、まるで物語の中のようでした。


夕日が差し込むと、その光は木々と葉の間を透過し、キラキラと森の中を照らすのです。

そこでちょっとした、おやつとジュースなどを持ち込んでくつろぐのです。

この経験が、恐らく自分の空間づくりの原点となっているのだと思います。




パーソナルスペースを作り出す。

しかも粗末な材料で。

侘茶、千利休の待庵にも通ずるブリコラージュ的建築。

しかもかなり原始的。


当然建築になんて成り得ていなかったのですが

随分と自分にとっては豊かだったんだと思います。


自邸「森の素形」は随分とそういう意味では

原点回帰的な意欲作だったのかもしれません。

身体にかなり接近する狭い空間が連続展開してゆくあたりが。

そしてベニヤを駆使した素朴な質感。


いっそ段ボールがよかったのかなぁ。。。(笑)



あ、もう一つエピソードがありました。

経験ある方もいるかもしれませんが

ドラえもんのように、

押し入れで寝るという行為をしたことありませんか?

僕は結構好きな方で、いかにあの1帖程の空間を快適にするかという

ことにチャレンジしていました(笑)

やっぱり、狭いところがすきなんですね。

まさにダイワハウス的なCMです(笑)


そんな、素晴らしい建築を知ることも見ることもなかった

少年時代だったわけですが

体験として空間づくりに興味を持ち、没頭していたのです。


その後も、素晴らしい建築を知ることもなく

中学生に。


中学校2年生くらいの時に

技術家庭の授業で、間取りを考えて

平面を立ち上げる授業というのがありました。

初めての平面計画です。


当然ながら設計などしたこともないので

全くちんぷんかんぷんです。

その授業自体、何を目的としていたのかもはや思い出せませんが

とりあえず、そんな授業だったわけです。


親に相談して、家づくりについて聞いてみるも

あてにならず、ふと、新聞のチラシに

分譲マンションなどの間取りがあることに気が付きます。


それを分析して、それなりに立ち上げてみました。

キッチン周りの対面カウンターなどが恐らく当時流行っていたのでしょう。

それを見よう見まねでつくってみたりしていました。

ただ、本当にわからな過ぎて、美しいとも思える

チラシもなく、適当に追求することもなく終えてしまいました。


ただ、そこで作った模型作りは非常に楽しかったわけです。

わりと簡単に作れるキットだったのですが

切って貼ってという、平面を起こしただけの空間。

平たいボードで構成する為

いかにもマンション的な四角いヴォリュームでした。

いま思えば、紙粘土などで手でこねこねしてつくらされていれば、

もっと感性豊かな空間を作って見せたに違いありません。


そうこうして、無事中学も卒業し高校へ。

高校はさらにいろんなジャンルの人たちが集まります。

友達の家に遊びに行くことも多かったですが

集合住宅やら戸建て住宅やら見ましたが

どれも、ピンと来ないのです。

ただの家だったんですね。

住むためだけの。

その家族らしさというものは全く見受けられませんでした。


高校生ですので活動範囲も広くなり

札幌を横断するような生活だったのですが

全然、建築に興味なんて一ミリもわかないのです。


ある日、同じ中学からの女の子が美術部に入っており

廊下で声をかけられます。

ゲンちゃんは入らないの?と。

確かに帰宅部もなんですし、絵は描けなくはなかったので

入ってみることになりました。


けれど、実際絵を描くことにすでに興味を失いつつあり

惰性で絵を描いてみたり、かかなかったり、

展覧会の出展時以外、顔を出すことはありませんでした。

美術や工作的な手を使うことは全て好きだったのもあり

恐らく絵以外の彫刻などに興味がわいていたのだと思います。


そののち、12年間に渡る版画の年賀状に取り掛かったのもその年です。

高校生から12年たつということは、

社会人半ばまで頑張って彫っていたのです。

かなりの密度で。

人気を博していたこのシリーズも、年末の僕の気力が追い付かず

干支一周して終えてしまいました。

最初は稚拙なデザインでしたが、だんだんとレベルアップしたものです。

ちょっとイラスト的ではありますが

晩年の作品をせっかくなのでご紹介。

これ、結構時間がかかるんです。。。




ちょっと脱線しましたが

その高校時代に、指導してくれた美術の先生が

話してくれたのが建築に関してだったのです。


当時は芸術分野の全てを作ってみたいと興味を抱いていたのですが

そんな折に、建築とは総合芸術であるということを語られました。

特に、教会建築について触れらていましたが

絵画も彫刻もステンドグラスも、全ては教会の為にささげられて

一つの空間を構成しているのだよ、と。

そして、ガウディのサグラダファミリアについても触れられ

まだピュアだった僕は非常に感銘を受けてしまったのです。


なんだかよくわからないけど、

全部に精通する建築という分野があるんだ、と。

はじめて、漠然と建築というものに興味がわいてきたのです。


ですが、僕はクリスチャンでもないし

教会に出向いたこともないわけです。

すばらしい教会建築を見る手段が思いつきません。

かくして、当時はまだ受け身のぼっちゃんだっただけに

そのままに、時間は過ぎてしまうのでした。


ただ、田舎のばあちゃんちが特殊な家の造りだということに気づき

遊びに行っては、その複雑な家の構成を頭の中でトレースし

建築設計でいう、知らぬ間にゾーニングの練習をしたりしていました。


玄関がここだろ、この奥が居間だよな。

その横が台所か。

ん?その横には味噌を作る土間があるんだよな。

あれ、玄関からまた別な和室に行けるんだよな、

二室あってこっちが仏間か。

その奥でまた居間につながってるんだな。


何なんだこの家は?みたいな。


トイレは、その奥の廊下にあって

お風呂はそのさらに奥だよな。

ん?この廊下が長いんだなぁ。

そうか、こっちのお店につながってるんだ。

その途中で急な階段を上ると部屋が4つくらいあるんだな。

みたいな。。。


いまでも、その甲斐あって

すぐに間取りを思い出すことができます。

店舗付きの広い家だったので

遊びに行ってもその構成が良くわからなかったのです。

けれど、高校生にもなると

さすがに、組み立ててゆくことができ始めたのです。


それでも、特段強い建築衝動には至りません。

ただの民家でしたしね。


つまり、北海道の環境はどこにいっても

なかなか感動する建築というものがないのです。

18歳になってもなお、建築アドレナリンが出ないのです。。。


いやはや、困ったものです。

現在でこそ様々な素敵なショップやカフェなんかもあるので

触れる機会も多いのですが

本当に当時は「建築」的なものは少なかったのです。


ここでいう「建築」とは「建物」+「感動」を指します。


まあ、まず「建築家」って本当にいるの?

という限定的な職域だったように感じますね。

それゆえに、建築家という敷居だけが上がってしまったような。。。


まあ、そうこうして、進路を決めます。

私立に行くことは念頭になかったため

「建築」をやりたいと漠然と思って探した結果

3校しかヒットせず。。。

なんて、大学が少ないのか。。。二つは地方だし。。。


そした、特にどんな教授がどんな研究をして

などということも調べることもせず

担任に導かれるがままに大学受験コースへ。。。


苦労して入って見たものの

1年半は、建築の授業はなく、しかも人気がある学科だから

その1年半の成績順で決まるという、さらに過酷な展開。。。

折角大学入ったのに、

しかしここで、挫折するわけにはいかない。。。


大学に入ってからも素晴らしい建築に触れるでもなく

授業とバイトに明け暮れる日々。。。

そうこうしてようやく、晴れて建築学科への切符を得たのです。


すると、そこに集まった猛者どもはすでに

建築に刺激を受けている人ばかりだったわけです。

それはそうです。北海道の人はほとんどいないんですから。

「ヤバイ」

出遅れ感半端ありません。

あちこちで、どの建築家が好きだとかなんだとかなんだとか

早々に聞こえてくるわけです。


すごいとこきちまったなぁ、という感覚です。


ただ、僕は優れた建築は知らないわけですし、

単純に建築をつくりたいだけでしたので

あまりそのようなクラスメートに迎合することはありませんでした。


そうこうして、ようやく建築の授業がスタートします。


建築には様々なジャンルの専門分野があります。

それを包括的に学ぶ学校だったわけです。

そののちの研究室は建築だけで12個もありました。


授業も、

設計演習に始まりデッサンや立体造形も多少ありました。

その他、構造、材料、地震工学、都市計画、建築史(建築の歴史)

環境工学、住環境、空間認知など様々な授業が待ち構えていました。


とにかく

建築家というものがどんな人なのかよくわからずにおりましたが

漠然とどうやら自分がやりたいことは建築設計、

建築家のジャンルらしいということはわかっておりましたので

とりあえず、設計演習関係のことは頑張ってみました。


巨匠ル・コルビュジエのトレースに始まりましたが

変な、建物だなとは思いましたが

見たことがない、テラスに木が生えたり

ガラス屋根だったり、幾何学を駆使した造形でした。

図面を模写して、模型を作って

実物の写真を参考にしたりして、できる限り現物イメージに忠実に。


そんなスタートではありましたが

教授から最初に贈られた言葉として、「旅をしてきなさい」と。

 

「建築物は建築史を見ただけでもいろんなものがあるので

自分が感動する好きになれる建物を探してきてください」と。


さらには

「借金してでも見なければなりません。」

と強く諭されるのでした。


学校の教授が「借金してでも」というのはよほど、

大切なことなんだなと思ったものでした。

けれど、そこに真意があると思い

建築本など評論的なものはほぼ読まずに、

ピュアに実空間と対峙することを意識するようになってゆきます。


かくしてさすがに借金はできないので

更にバイトに打ち込みお金をため、奨学金を借りるなどして

「ホンモノ」を探すことになったのです。


国内外チャンスがあれば出かけるようにしました。

それこそ、海外では巨匠のル・コルビュジエに始まり

ミース・ゲーリーなど様々な有名な建築物、そしてその街の景色。

高校の時に耳にしたバルセロナのガウディも片っ端から見に行きました。


国内も丹下健三・安藤忠雄など著名人を筆頭に有名なものは

見れる範囲で片っ端から見ていきました。

その傍ら、寺社仏閣や古民家も見て回ります。


するとどうでしょうか。

こんなにも豊かな建造物が世界中にあるものなのか!!

と素直に驚いてしまいました。

まさに、自分の志す道だと強く思ったのです。

なにせ、建物を見て、体験して

こんなにも感動することなどなかったわけですから。


最近は、「人は感動するために生きている」と

思い込んでは、自分に言い聞かせているのですが

どうにか、この自分がうけたショック「建築的感動」を

人に伝えたいと強く思うのです。


ひとりでも多く伝えてゆきたい。

何でもそうですが、知らぬは損。

こんなに楽しい世界があるということをまずは知ってほしい。


できうるならば自分の手で生み出した

作品として昇華した建築を通して。

まだまだ、未熟で途上ではありますが

ずうずうしくも、出会ってしまった方には

少しでもより良いものをご提案させていただきます。


ただ美しければいいというものではないのです。

形をこねくり回して、難しいことをやればいいわけでもないのです。

豪華である必要もないのです。


素晴らしい、建築たちが教えてくれたのは


「人と建築との距離」

「素材の適切な配置」

「光の美しさ」

「大地と建築の呼応」

「閉鎖と解放」


などなど。


これらを適切に丁寧に汲み取ることで

様々な建築が、本物の感動をまとった

「建築」として立ち上がってくるのです。

これらが一つでも適切に扱われなかった場合、

ただの「建物」として生まれ落ちてしまうのです。


GLAとしては少しでも本物もしくは本物に近い

建築環境を札幌を中心に生み出したいと考えてしまいます。


社会に出てこれまでの設計人生13年間、

学生時代から延々と続けている建築行脚のおかげで

建築の良し悪しがわかるようになりました。

これまで出会ったクライアントの皆様には

少しでも幸せになっていただきたく

やんわりと我を通させていただいた場面もありましたが

強い信念と想いをもって、情熱を傾けて仕事に当たらせていただきました。


まさか、昭和-平成-令和と三次代を駆け抜けるとは

思いもよりませんでしたが、

令和はさらなる建築的快楽を目指したいと考えております。


平成という、自分の根幹を作った時代を振り返り

日本各地で大変な震災も経験し、

必ずしも良いことばかりではない時代でしたが

それでも、前に進むしかない道はなく

多くの知見と経験を得ることができたのだと思います。


建築とは芸術以前に人と財産を守るもの。

しかしながらただ使えればいい、住めればいいというものでもない。


巨匠丹下健三はこのように述べています。

「美しいものこそ機能的である」と。

建築家は、まずは人の心を動かすものを生み出し、

そして、住む人は愛着をもってそれを利用する。


文房具一つとってもそうですよね。

かわいい、かっこいい、という感情から大切にそれを使おうとする。

そういうことなんだと思います。


最近のお気に入りはコレ。

不朽の名作がちょっとだけかわいいキャップをかぶりました。

最近のスケッチはこれで描いています。


それと、手にフィットするくびれたボールペン。

これまた、書き味がたまりません。


こんなGLAではございますが、

建築家としてできることを模索しながらの

平成最後の執筆とさせていただきます。


美味しいお店情報はまた次回に!


「令和」も執筆頑張りますっ!!!



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